本稿は『今昔』の多様な人間群像の中で親子間の因縁について考察してみたものである。多くの因縁の中で親子の関係で会うことは最も貴重な因縁であり、宿命的な機縁または宿報として考えられた。偶然泊まった家で鷲に捕えられた娘と再会した父、またその娘を養育してくれた父、その二人の父を親として持つことになった話や、冥途から甦ってきて現世で四人の親を持つことになった娘の話、蕪を通じて生まれた息子と妻との出会い等は、みんな前世から繋がった宿世の因縁によるものである。 また、父母と妻子の中で軽重を選択させられる極端な場面では父母を優先しており、その根底においては儒教の孝が大きな影響を及ぼしていると言えよう。 このように親子関係は貴重な因縁であったが故に天倫ともいうが、これに反した場合もある。自分の将来の安慰のため息子を勘当したり、親の期待を裏切った娘を顧みなかったり、自分の病を治すため子を犠牲にすることも止まない歪曲した関係に墜落することもあった。 仏教説話では、仏である釈尊さえ息子に対する愛情は衆生と変わらず、仏の人間的な姿がむしろ感動を与えてくれるし、源信と母の往生談では親子がお互いに成仏と往生を助ける仏道の善知識であったことが確認される。 以上、『今昔』の親子因縁談の分析を通して説話の底に内在している当時の社会的な制度や観念を把握するとともに、『今昔』の編者がいかなる視線と表現で親子を眺めながら描いているのかを分析することによって、作品の文学性を再度確かめてみることができたと思われる。